リアルな大航海時代


このページは大航海時代Onlineのモデルである。歴史上の大航海時代について
管理人があれこれ書いていくページです。
つたない文章ですが、暇つぶしになれば幸いです。




1.大航海時代とは?
 
 まず、歴史上の定義として、大航海時代とは一五世紀中頃から一七世紀中頃までの西洋諸国における、植民地主義的な海外進出の時期の事を指します。
 詳細な年代としては、西暦1453年にオスマントルコのメフメトU世によるコンスタンティノープルの征服の頃から、1648年のヴェストファーレン条約の締結による三十年戦争の終結の頃までになります。
 歴史学上は西洋史における近世の一時代として区分されています。
 下の地図を見ていただければ分かりますが、縦に色分けされた二本の子午線は、1494年のトリデシリャス条約 1529年のサラゴサ条約によって決められた
ポルトガルとスペインの勢力圏の境界線です。
 で、次の地図でも分かる通り、17世紀中頃にはオランダが東南アジアや、南アフリカへと進出してきており、勢力が変わっているのがわかります。
 すなわち、大航海時代とは、ポルトガルとスペインの両海洋帝国の隆盛と衰退の時期とも言えます。

 15世紀〜16世紀かけての世界情勢
 17世紀中頃の世界情勢


2.DOLのモデルとなる各国の情勢

 

  • ポルトガル
    • イベリア半島のポルト地方の地方伯であったアルフォンソT世が1139年に王を名乗り、1179年に教皇から王と認められ成立する。
    • その後レコンキスタ(国土回復運動)を1251年に終了、1385年にアルジュバロダの戦いにより、カスティリア王国より完全独立し
    • 程なく、エンリケ航海王子によるアフリカへの進出が始まります。
    • エンリケ航海王子の亡くなるのが1460年で、大航海時代のスタート時点では既に、ヴェルデ岬に達しています。
    • しかし、1580年アヴィス朝の断絶により、スペインとの同君連合(事実上の併合)となる。これにより勢力は衰退し、ブラガンサ朝のもとで王政復古、再独立を果たしますが、以前のような勢いは無くなっていきます。
  • イスパニア
    • 起源は718年成立のアストゥリアス王国に始まる。その後。レオン王国、カスティリア王国、アラゴン王国に分かれレコンキスタを展開。コンスタンティノープルの陥落時にはカスティリア王国、アラゴン王国に別れた状態で、レコンキスタも終了していない。その後、カスティリア女王イザベラとアラゴン王フィルディナンド5世との結婚により、1479年に同君連合として合同。1492年にはグラナダを征服してレコンキスタを完了させます。その後ハプスブルグ家のカール5世、その子のフェリペ二世の時にイスパニアは最盛期を迎えます。東南アジアから新大陸にかけて、まさに、陽の没しない帝国として君臨しますが、スペイン継承戦争や、ユダヤ教徒に対する弾圧、また、新興のイングランド、ネーデルラントに押され、衰退の道を歩むことになります。
  • ヴェネツィア
    • 伝承では、697年に最初のドーチェが選出され、この年を持ってヴェネツィア共和国の成立としている。実際に歴史上で確認できる最初のドーチェは、726年にオイソ・イバートで、東ローマ帝国の文献に記録されている。これからも分かるとおり、元々の出発点は東ローマ帝国の自治都市として出発しており、東ローマ帝国からの交易品を中継することにより、勢力を伸ばしていくことになります。その結果、14世紀には東地中海の覇権を確立します。しかし、1453年のコンスタンティノープルの陥落後オスマン=トルコの勢力の拡大に対する抵抗に国力のほとんどを費やすこととなり、新大陸の進出は後進のポルトガル、イスパニアの独占するところとなり、また、地中海交易もコンスタンティノープルを抑えた、オスマン=トルコによりその地位を低下させます。そして、ナポレオン戦争のさなか、1797年にその1000年以上に及ぶ歴史に幕を閉じる事になります。
  • イングランド
    • イングランド王国の歴史は古く、帝政ローマの影響力が無くなる5世紀頃に成立した7王国をウィリアムT世(征服王)が征服した1066年まで遡ることができます。
    • 成立当初は、主権国家と言うよりも、フランス王国の貴族の属領という扱いであり、当時のヨーロッパの中では後進国でした。
    • この状況が変化するのが、100年戦争によりフランス王国内の領土を失い、バラ戦争により王統が統一され、チューダー朝が成立する1485年からです。
    • この時期に即位したエリザベスT世の時、国内では絶対王政を完成させ、海外では当時世界最強と言われたイスパニア艦隊をアマルダ海戦(1588年)で破り、
    • 世界帝国への道を進んでいきます。
  • フランス
    • フランス王国の起源をさかのぼるとフランク王国までにさかのぼることができます。フランク王国はゲルマン民族の大移動により、ガリア地方にゲルマン人の一部族であるフランク族が定住したことに端を発し、481年にクローヴィス一世が即位して成立します。その後紆余曲折を経て、987年にフランス公兼パリ伯であるユーグ・カペーが即位した時点で、一般的なフランス王国の成立とされています。
    • 大航海時代の初めである15世紀の時点ではヴァロア朝のころであり、その後1589年にブルボン朝が成立します。しかし、イングランドとの100年戦争やユグノー戦争により、海外への進出が本格化するのは16世紀後半から17世紀と他の国よりも遅いスタートとなった。しかし、本国での動乱は収まらず、フランス革命、ナポレオンの登場により、ヨーロッパ全体へと広がっていきます。
  • ネーデルラント
    • ネーデルラントはもともと低地の国々を意味する言葉で、フランク王国や神聖ローマ帝国のいくつかの諸侯の領地をへたのち、14世紀後半にブルゴーニュ公国として政治的にまとまりをもつようになります。その後、ハプスブルグ家の所領としてマクシミリアン(1459-1519)の時代には、その所領の中心となります。
    • その後、ハプスブルグ家の領地をオーストリア系スペイン系に分割する際に、ネーデルラントはスペイン系、すなわちイスパニア王国に含まれることになります。
    • ネーデルラントの独立のきっかけは、宗教改革の結果持ち上がった、キリスト教のカトリックとプロテスタントの対立に始まります。
    • その後紆余曲折を経て、ネーデルラント連邦共和国が1648年に正式に成立します。
    • 海外への進出はオランダ東インド会社を設立する17世紀初頭にはじまり、ポルトガルから香料貿易を奪い、日本でも独占貿易権を得るなど黄金時代を迎えます。
    • しかし、そのころの貿易の利益はほとんど、ヨーロッパ域内であり、東インド交易はあまり利益をもたらしていないのが実情でした。
    • しかし、その後に吹き荒れるフランス革命に始まる、戦乱の嵐の中でその覇権も消えてゆくことになります。
  • オスマン=トルコ
    • オスマン=トルコはもともとアナトリア北西部に割拠した傭兵集団として出発しており、2代オルハンの時代にはすでにバルカン半島にまで領土を拡大する。その後ティムールとのアンカラの戦いによって、一時滅亡の危機に瀕するも、その後勢力を回復します。
    • そして、1453年メフメト2世はコンスタンティノープルを攻略し、このことが、ルネッサンス、大航海時代への引き金へとつながります。
    • その最盛期スレイマン1世のころ(1520−1566)であり、その範囲は東はアルジェの先、西はペルシャ湾、北はウィーン近郊、南エジプト南端と、広大な地域におよび、まさに全ての品はイスタンブルに集まるといった状態となりました。
    • イスラム教の大帝国の出現はキリスト教国であるヨーロッパ諸国にとって、脅威であり何度か排除が試みられたが、レパントの海戦によって勝利するも、その勢力は依然衰えず、17世紀にオスマン帝国は最大版図を達成する。
    • その後、産業革命によってヨーロッパ諸国の国力が強化するに伴い、逆に国力は衰退、第一次大戦における、同盟国側での参戦と敗北、そしてトルコ革命により1923年に歴史の舞台から姿を消すことにななります。







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